愛する人との別れ『サヨナラのその先に』 愛する人との別れ~「いのち」をめぐるエッセイ  浄信寺

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グル―パーズ

愛する人との別れ『サヨナラのその先に』

住職のひとりごと

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浄信寺より

2022-2-14

愛する人との別れ『サヨナラのその先に』 - 愛する人との別れ~「いのち」をめぐるエッセイ 

愛する人との別れ~「いのち」をめぐるエッセイ 

『サヨナラのその先に』

日本語の別れ言葉には不思議な響きがあります。
英語の「Good bye」は、Good (Goodness=God)be with ya(you)、つまり「神が共にあらんことを」とでも訳すのでしょうか。去りゆく人に神のご加護があるように願うことを以って、相手の運命は神に委ねます。しかし、日本語の「左様なら(さようなら)」、「じゃあ」、「では」、「また」は、本当の別れを宣言するのではなく、未来に再会が約束されているかのような余韻を残しています。その関係を未来に繋げる為の接続詞のような言葉です。
「いつか会える…」いや、「会いたいから」こそ、そこで終止符を打たずに、現在進行形の問いを残したまま未来に待っている再会に向け、各々の物語を続ける。
日本語の別れの挨拶は、その先の再会へ向けての約束であり、そのスタートを宣言する言葉なのかもしれません。

東日本大震災後のあるアンケートに「ぜひ備えておかなければいけなかったと思うもの」という質問があり、多くの方が「家族の連絡手段、集合場所の確認」と答えているのが目に止まりました。今ほど家族との絆の大切さを実感する時はないでしょう。
地震などの自然災害に限らず、大切な家族との死別もまた、私たちの日常を突如分断します。そして、愛する人との別れは自身の人生における最大の苦しみであり、その喪失はお互いの間に築き上げてきた日々の物語の終止符を意味するものかもしれません。
日本人は、お葬式や法事、年中行事や日々のお参りなどを通じ、この世のご縁が尽きた先の物語を家族で共有してきました。しかし、現代はその物語を失おうとしているようにも思えます。

残念なことですが、私が旅立った後、私はこの腕で家族を抱きしめることも、慰めの言葉をかけることもできません。大切な人との現在を掛け替えのないものと感じ、その絆が「とこしえ」にあることを願った時、今の私が備えておくべきは、それらの人々と、「その先」の物語を平生から共有しておくことであり、「家族の連絡手段、集合場所の確認」という視点で見れば、それは大切な人と信仰を同じくすることではないでしょうか。
3月はお彼岸の月です。お彼岸は太陽が真西に沈み、西方の極楽浄土に思いを向ける好機でもあります。私たちが彼の岸に思いを抱くように、あの夕陽の向こうにも、私たちの人生を見守っている人たちがいます。

「サヨナラ」は、再び会うまでの互いの新しい物語のスタートです。「あんなこと、こんなこと」があればこそ、再会の喜びも深いものです。辛く悲しい時にも、「では、また」の先にある再会の約束を励みとし、自身の日々の物語を重ねて行きたいものですね。
あなたが「生き切った」その沢山の人生の物語こそが、あの人への最高の土産となるのです。極楽の蓮の台で、いつか語り合うその日まで、あなたらしく精一杯に生き沢山の人生の物語をつくることが、亡き人の供養になるのです。


「いのち」をめぐるエッセイ 其の1


愛する人との別れ~いのちをめぐるエッセイ 別れ 愛する人

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お寺とは、どんなところでしょう。「ご先祖さまをご供養するところ」、「仏さまのいるところ」、「心のよりどころ」、もしかしたら「私には縁がないところ」、そのように思う方もいるでしょう。 お寺との関わり方や捉え方は人それぞれです。そして、それぞれの人の関心や問題も様々です。時にはお寺を通して世界を見てみませんか。今まで見えなかった景色が見えるかもしれません。 浄信寺では、檀家さま、信徒さまは勿論、今までお寺にご縁を持てなかった方にも親しんで頂けるお寺でありたいと思っています。