浄信寺http://www.joshinji.net浄信寺の最新の記事永代供養廟「一処廟」http://www.jyoushinji.net/News/view/1/111http://www.jyoushinji.net/News/view/1/111平塚市内で永代供養墓をお探しの方へ : 浄信寺では、「跡取りがいない」「地域のご縁があまりない」「経済的に苦しい」などという方が、お寺と縁を持てないのではないかと感じていることを残念に思っています。 かつての地域社会では、自身や配偶者などの最期に際して周囲が協力し不安を解消してくれました。しかし、現代ではそのような相互互助の関係性は薄れ、最期の不安をひとりで抱えている方が多いのではないかと思っております。 そのような方々の不安を解消するのがお寺本来の役割ではないかと考えます。どのような些細な事でも構いません。契約をする、しないにかかわらず、お気軽にご相談ください。 浄信寺では永代供養廟として「一処廟」という納骨堂(写真)がございます。 一処廟は… ●室内式の納骨堂です。  外からお参りするタイプではありません。 ●納骨壇で三十三回忌(32年間)または、十三回忌(12年間)まで個別安置。  三十三回忌(十三回忌)を過ぎると合同墓に合祀されます。 ●年会費はかかりません。  喜捨はありがたくお受けいたしますが、こちらからお願いすることはございません。 ●ご夫婦でもご利用できます。  安置期間は、あとに亡くなった方から数えます。 ●お骨の有無にかかわらずご契約できます。  生前のご契約も可能です。ご契約者が逝去後は寺が責任をもって永代供養いたします。 ●跡継ぎがなくてもご契約できます。  浄信寺で永代供養いたします。 ●過去帳に記載し位牌を作成し、以後春夏の合同法要を行います。  参加は自由です。 ●お寺との関わり方は自由です。「浄信寺だより」等で情報は発信したします。  皆様に愛される寺院活動を目指しております。 志納金 三十三回忌までご安置の場合 [個別安置一霊位] 50万円+位牌代実費分 [合同安置一霊位] 30万円+位牌代実費分 [合祀一霊位] お気持ちで構いません。ご相談下さい+位牌代実費分 十三回忌までご安置の場合 [個別安置一霊位] 30万円+位牌代実費分 [合同安置一霊位] 20万円+位牌代実費分 [合祀一霊位] お気持ちで構いません。ご相談下さい+位牌代実費分 場所:浄信寺境内地内(神奈川県平塚市長持337) Thu, 25 Jan 2018 16:08:50 +0900終活について 其の五http://www.jyoushinji.net/News/view/1/110http://www.jyoushinji.net/News/view/1/110「弱さの思想」高橋源一郎+辻真一 より : …島には旅館がたしか二軒しかない。 電話をかけたら、「泊まるのはいいけど、私、今病気だから世話ができない」って言われて、「いいです、泊めていただければ」と行ったわけ。港のすぐ前にある旅館です。 …本当におばあさんが布団を敷いて寝ていた。 「ご飯作れないよ」というから、「どっか食堂はありますか?」って聞くと、「あるんだけど、今日は法事で貸切り」って(笑)。 どうしようかなと思って二階の部屋に入って、二時間くらいたったら、下からいい匂いがしてきた。降りて行ったら、台所でだれかがご飯を作ってる。 「どなたですか?」って聞いたら、「隣の者です。おばあちゃん病気だから来たの」。 「何作ってるの?」「あんたたちの夕飯だよ」って(笑)。 ご飯を食べてたら、話を聞いた人が魚を持ってきてくれた。 「お金はいらないよ」って、食べきれないくらいのお刺身もでてきた。 話を聞いたら、「ここでは困ったら他の人が来てやってる」っていうんで、「これはすごいことだ」って、この島のシステムを調べることになったんです。 (中略)あそこには、人が生きて死ぬ場所だっていう感じがちゃんと残ってますよね。我々はとりわけ死を隠してしまい、死を見ようとしない。死が文化の一つではなくなってしまった。祝島の人たちは「死ぬまでどうするか、それまでどこに住むか、だれとどうやってすごすか」を具体的に考えていると思います。都会では、死を具体的に考えるようになってないから、死はないような気がしてくる。でも、実際には、一人ひとりが個別に死と向かい合わなきゃいけない都会のほうが、よほど悲惨なわけです。」 「弱さの思想」高橋源一郎+辻真一(大月書店)より  他者に寄り掛かるのも、寄り掛かられるのも迷惑と考えるのは仕方のないことかもしれませんが、そのような「お互い様」を面倒なこととする社会も息苦しいものです。人は決してひとりでは生きて行けないのですから、誰かの手を借りずには生きることも死ぬこともできません。誰かに寄り掛かることができない状況では結局お金を仲立ちしなければ、自身の身の回りのことは出来ないのです。  経済とは、このようにして互酬性(お互い様)を無くし、個々を分断することで生ずる人間の脆弱さに付け込み大きくなる側面もあるでしょう。或は双方向の関係である「お互い様」で生じる人間関係の面倒を「金銭によって買い取りますよ」ということで成り立つ面もあるでしょう。高度な消費社会が進んだ都市部においては、一人で生き、一人で死んでいくことが可能です。しかしそれは誰かをお金で動かすことしかできない社会の在り方です。  世界規模で格差が開き、固定化されています。莫大な借金と超高齢化の社会となるこの国の行政サービスもあてにできません。これからの世界を生きる子や孫の世代は益々困難な時代になるでしょう。彼らの時代において「一人で生き、一人で死ん行く」という生き方は、現在よりも更にコストがかかりリスクも高くなるでしょう。勿論、お金を持つ者はその選択肢もありますが、持たざる者は人との縁が命綱なのです。  私たちは子や孫に、他者を出し抜き、15%の勝ち組に生き残る術だけを教えるべきでしょうか。85%の持たざる者になった時の生き方として他者と支え合う知恵を授けられるのも現在の終活世代の方々なのです。人々が貧しいなかにも助け合い、支え合って生きてきた時代を知っている最後の世代なのです。  既出(終活について其の壱)の小谷氏のお話しのように、「あとは任せる」と一言言い遺せるような人間関係を築く為の結縁づくりこそが、これからの時代の終活ではないでしょうか。 Tue, 23 Jan 2018 16:21:55 +0900終活について 其の四http://www.jyoushinji.net/News/view/1/109http://www.jyoushinji.net/News/view/1/109葬儀と告別式 :  「通夜、告別式は都内●斎場で行われます」  有名人がお亡くなりになるとこのようなニュース原稿が読まれることがあります。テレビ画面を見てみると僧侶が読経している姿が映し出されています。しかし本来「告別式」という言葉は中江兆民が亡くなる際に宗教色を排した荼毘を希望したときが始まりと言われます。つまり、告別式とは別れを告げる無宗教式を言うのです。ですから僧侶が読経供養しているのは告別式ではありません。  現在、平塚市近辺の葬儀社のアナウンスでは、「通夜、葬儀・告別式」という言い方をしてくれます。つまり、葬儀式後、導師が下がったあとに、故人の棺にお花を手向けたりしながら別れを惜しむ時間を告別式として宗教儀式とは区別しています。この方が正しい表現の仕方と言えるでしょう。大手テレビ局よりも地元葬儀社の方がプロとして正しいのです。  人は生まれても必ず死にます。しかし命というものは糾(あざな)える縄のようなものです。かつて生きた人々の思いの上で生きているのがこの私です。その意味において葬儀式とは過去(死者)と今を生きる私(生者)の結び目となります。葬儀式は「お別れ会」ではありません。  本当に「別れを告げる式」即ち告別式だけで良いのでしょうか。  勿論、簡単に別れを告げられる関係ならば結構です。  しかし本当に大切な人との関係は、たとえ肉体は消えても切れないものです。いや肉体が消えたからこそ強固な関係を再確認することもあるのです。お別れを言えば区切りがつくような世俗の関係を超えたところの繋がりを再確認し、リスタートするのがお葬式であり、その結び目となるのが葬儀式です。だから私ははっきりと区別したいのです。葬儀式と告別式とは全く違うものなのです。  供養や葬儀は「死ぬ」側だけでなく、「死なれる」側にも大きな意味を与える行為であることも忘れてはなりません。 Thu, 11 Jan 2018 11:41:11 +0900第12回「つるし雛展」ご案内http://www.jyoushinji.net/News/view/1/108http://www.jyoushinji.net/News/view/1/108今年で12回目となる、浄信寺恒例の「つるし雛展」が下記の日程で行われます。 当日は、約6000個のつるし雛が皆様をお迎えいたします。 インスタ映えもばっちりです。 皆さまのお越しを心よりお待ちしております。  日程:平成30年2月23日(金)・24(土)・25日(日) 時間:連日9時より16時まで    ※駐車場に限りがありますので、会場へお越しの際はなるべく公共の交通機関をご利用して下さい。 (平塚駅から来られる方は、平塚駅北口8番乗り場をご利用し、「秦野駅行」に乗車、「長持」バス停で下車して下さい。料金は大人250円です。タクシーなら約1700円ほどの料金です。) お気をつけてお越しください。 (写真は昨年のものです) Sat, 06 Jan 2018 10:00:53 +0900終活について 其の参http://www.jyoushinji.net/News/view/1/107http://www.jyoushinji.net/News/view/1/107会うは分かれの始まりです :  子どもの頃、私はただ漠然と「死」を恐れていました。  死とは何かということもよくわかりません。  勿論、今でもわからない事ばかりですが、かつてとは大きく違うことがひとつあります。  それは子どもの時の恐怖は、この「私が死ぬ」恐怖だったように思いますが、今はそれよりも「死なれる」ことに対する恐怖の方が大きくなったということです。  歳を重ねるということは、かけがえの無い人が増えて行くことでもあります。  かけがえの無いとは、「かけかえることのできない」、つまり他のものでは代替できないということです。そして、かけがえの無い人を失うことは自分の人生で最も辛いことではないでしょうか。  現代の社会は「得る事」には貪欲でも、失うことに対しては脆弱です。  勿論、物であれば、失った物よりも更に最新のスペックの良い商品に買い替えることもできます。しかし、かけがえの無い人の喪失は、「買えば良いや」「取り換えれば良いや」というものではない筈です。  現代の消費社会では葬儀業界の在り方も大きく変わって来ました。  「新しい供養のあり方」、「私らしいお葬式の提案」などの謳い文句があふれています。しかし、変わらないことも大切なことではないのでしょうか。お葬式や年忌法要などの供養のあり方には、「かけがえの無い人」との「かけかえることのできない」関係性がストーリーとして内在しているのです。  自分が祖父母や父母を送ったようにして、自分も子や孫に同じようにして送られて行く…。その儀式や作法の中で、私たちの先祖たちは避けることのできない死別をも見据えた物語を「かけがえの無い人々」と共有して来たのです。 「死」の本質は「死ぬ」事だけはなく、「死なれる」事でもあります。 私は「死ぬ側」だけでなく、「死なれる側」にもなるのです。  「会うは別れの始まり」とは悲しい言葉ですが、ある意味で真実でもあります。だからこそ、かけがえの無い人と共に、死生観を共にしておくことが大切です。  それは決して難しい話をするまでもなく、伝統的な供養を丁寧に行ってゆくなかで感性として涵養されて行くものなのではないでしょうか。 Fri, 05 Jan 2018 11:40:34 +0900終活について 其の弐http://www.jyoushinji.net/News/view/1/105http://www.jyoushinji.net/News/view/1/105中高年はアイドル : 「中年と高年。普通、四五歳以上六五歳程度の人をいう。」(大辞林) 最近私も中高年の仲間入りをしたせいか、毒蝮三太夫さんの毒舌や綾小路きみまろさんの漫談を楽しむおばさま、おじさまの気持ちがわかって来ました…。 「おいババァ、まだ生きてんのか!」「あれから四〇年!」自虐的なギャグに腹をたてる事無く笑い転げるご婦人方を見ると本当にしなやかで強かで、チャーミングにさえ思えます。 老いや死はいくら逃げても追って来ます。それらに背を向け逃げる人生は疲れます。 それより、これらを正面から受け止めるように思考を変えた時から人は良い意味で「図太く」なれるのでしょう。老いや死をタブー視せずに笑い飛ばしてしまう事こそが、実は死や老いに打ち克つ事かもしれません。 時々「家族には迷惑を掛けたくない」という中高年の言葉を聞きます。そのお気持ちも理解できますが、迷惑を掛けたくないと言われた人(特に子どもなど)には、そんなに私の事を頼りなく思っていたのか…と思う人もいないとは限りません。 大切な事はタブー視せずに、残される家族と死について話し合うことです。 勿論これには前提があります。心身共に健康でなければこれらの話題は文字通り洒落になりません。ですから、元気なうちに周囲の人と(特に)死については語っておくべきなのです。(つづく) Sun, 31 Dec 2017 09:41:52 +0900終活について 其の壱http://www.jyoushinji.net/News/view/1/103http://www.jyoushinji.net/News/view/1/103「迷惑」はかけないよりも、かけられる関係づくり : 「終活は、自立できなくなった時に誰かに任せられる関係を築く「結縁」活動でもある。…介護や終末期医療、葬送などについて自分がどうしたいかをあらかじめ伝え、「あとは任せる」に一言を伝える人がいれば、多くの高齢者に不安は軽減できるのではないだろうか。その意味では、終活ビジネスが煽動するブームは、高齢者をますます不安にさせている側面があるように思えてならない」(中央公論「終活戦線異状あり」小谷みどり)。 煽動と少々過激な表現はありますが、「終活は結縁なり」とは、長年に亘り葬儀事情を研究されている小谷氏ならではの的確な指摘と言えるでしょう。 小谷氏は続けて言います。 「終活で大切なことは、遺族や周りにかけるであろう手間を「迷惑」だと思わせない人間関係を築いておくことではないか」。 人は誰かに迷惑を掛けずには生きるも死ぬもできません。ですから、迷惑を掛けると思うのならば、その迷惑はなるべく分散しておくことです。家族だけではなく、周囲にも相談したり寄りかかれたりできる関係性を築くことです。勿論、お寺もそのなかの大きな役割を担うと私は思っています。(つづく) Sun, 31 Dec 2017 09:34:31 +0900平成29年度物故者追善法要のご案内http://www.jyoushinji.net/News/view/1/101http://www.jyoushinji.net/News/view/1/101聖号十念 朝夕の寒気が身にしみるころとなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。  12月になった途端に街は年末に向け、賑やかになって行きます。いっぽう、大切な方がお旅立ちになったことで、今年の冬はいつもとは違った景色に見える方もいらっしゃるのではないかともお察し致します。 浄信寺では、毎年その年にお亡くなりになられた方々のご供養をしております。これは大々的に行う法要というよりも、私(住職)自身がご縁のあった故人様や今年一年に亡くなられたすべてのみ霊に対してご供養をしているものです。 もしご一緒にお参りして下さる方がいらっしゃれば共にご供養いたしませんか。浄信寺の檀家さまに限らず、浄信寺にご縁の無い方でも構いません。 友達や恋人などの関係上、故人さまの年忌法要に参加したくてもできなかった、或は事情があって法事を行えなかった方など、ご供養ができずに心残りのある方はいませんか。 予約は要りませんので、時間前に本堂にお集まりください。合掌 ※事情があってお越しになれない方は、お問合せフォームからその旨をお伝えください。参加できずとも、お名前をお呼びしてご供養いたします。 ※今年亡くなられた方でなくても構いません。        記 平成29年12月23日(土/祝) 受付開始:午後3時より 法要開始:午後3時30分より 法 話 :午後4時より 会 場 :浄土宗 浄信寺 平塚市長持337 その他 :会費は不要。服装は自由です。         (喜捨箱がございます。ご希望の方はお気持ちを) Fri, 01 Dec 2017 15:52:42 +0900いのちをめぐるエッセイ その18http://www.jyoushinji.net/News/view/1/99http://www.jyoushinji.net/News/view/1/99祈るあなたも美しい : お彼岸が終わりました。 大勢の方がお参りされ、沢山のお花が上がりました。 浄信寺永代供養廟「一処廟」ではお参りされる方が個々にご自由にお花をお上げ頂き、枯れたものから住職が下げております。 お参りは朝8時から、夕方の6時まで。出入りは自由です。 年末やお正月もお参りできます。 お参りされる方の心はとても穏やかで、安らかで、温かいのではないでしょうか。 彼岸のあの方も、皆様のお参りをとてもお喜びになっています。 ご供養とは一方通行のラブレターではありません。 お互いがお互いを思い合い、まるで鏡写しのように、互いに祈り合う姿がご供養の姿です。 彼岸に居られる仏さまや亡き人を飾るそのお花は、此岸で祈るあなたのその美しいお心とお姿を彩るものでもあるのですね。 Thu, 28 Sep 2017 18:52:33 +0900第11回『つるし雛展』のご案内http://www.jyoushinji.net/News/view/1/94http://www.jyoushinji.net/News/view/1/94つるし雛展 : 今年で11回目となる、浄信寺恒例の「つるし雛展」が下記の日程で行われます。 当日は、約6000個のつるしびなをお飾り致します。 皆さまのお越しを心よりお待ちしております。                             記 平成29年2月24日(金)・25(土)・26日(日)    連日9時より16時まで    ※駐車場に限りがありますので、会場へお越しの際はなるべく公共の交通機関をご利用して下さい。 平塚駅から来られる方は、8番乗り場をご利用し、「秦野駅行」に乗車、「長持」バス停で下車して下さい。 お気をつけてお越しください。 (写真は昨年のものです)Fri, 13 Jan 2017 11:14:47 +0900いのちをめぐるエッセイ其の17http://www.jyoushinji.net/News/view/1/92http://www.jyoushinji.net/News/view/1/92「私は君たちに憎しみの贈り物をあげない。君たちはそれを望んだのだろうが、怒りで憎しみに応えるのは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは私が恐れ、周囲に疑いの目を向けるのを望んでいるのだろう…それなら、君たちの負けだ。私はこれまでと変わらない。」 昨年11月13日に起きた「パリ同時多発テロ」で妻を亡くしたフランス人ジャーナリストのアントワーヌ・レリスさんの言葉にお釈迦様の一句が重なる。  「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である(法句経)」 当時、ダライラマ十四世はテロについて以下のように発言した『我々は、祈るだけではこの問題は解決できない。私は仏教徒であり、信仰を信じている。問題を作り出したのは人間なのにも関わらず、問題の解決を神に委ねることは論理的なこととは言えない。神ならばこういうかもしれない「問題を作り出したのは人間なのだから、自分たちで解決しなさい」と』 神仏を恨んではいけない。人は自らの内に悪を引き起こす種を持っていることに無自覚でいれば、人を傷つけ苦を生み出すことにも無自覚である。真の信仰を持つということは、他ではなく自らの内に悪の心が存在することを自覚することである。外に敵を作り、自らを正当化することは仏教徒としては戒めなければならない。 一方で、「はてこの私は?」と自問してみる。いや、この自問こそが大切なのかもしれない。自らの至らなさを知ることで阿弥陀仏の慈悲の光明と出会う。 「我この傷痛む。人また痛まざらんや。我この命を惜しむ。人あに惜しまざらんや」法然上人のお父上は夜襲をかけた相手を恨み仇を打つ事を戒めて息を引き取った。 “愚者の自覚”を促した法然上人の時代から科学万能の世に到っても人の心は何ら進歩していない。 自らの愚かさを知らない者が最も危いことを、この私自らが自覚しなければならない。 あれから一年。アメリカの次期大統領にドナルド・トランプ氏が決まった。世界は大きく動いている。時代の波に飲み込まれぬよう、自らの片足はしっかりと仏の世界に着けておきたいものである。 Sat, 19 Nov 2016 10:14:57 +0900いのちをめぐるエッセイ其の16http://www.jyoushinji.net/News/view/1/91http://www.jyoushinji.net/News/view/1/91大切な方を亡くされた方へ : 『「さよなら」は別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束♪』 昭和生まれには懐かしヒット曲、「セーラー服と機関銃」。(作詞来生えつこ) 当時中学生だった私には、歌詞の良さが分かりませんでしたが、サヨナラを重ねるうちにこの歌の良さが分かるようになりました。 (しかし、「セーラー服と機関銃」という曲名は何とかならないんでしょうか…) 日本にはたくさんの別れ言葉がある。 「さようなら」「さらば」「では」「じゃあ」「また」… 単語だけ取り上げても一体何のことを言っているのか分からない。 Good-byなら分かりやすい。 God be with ye、つまり「神が汝とともにあらんことを」を縮めたものである。 別れは必定なのですよ、あとは神様に任せましょう。という感じですね。 さようなら、じゃあ、また、では… みなまで言わない。みなまで言えない。 もしやまた再会ができるかも。 いや、また再会しましょう。 だから今日はすべての想いを語らず、じゃあ、また、では… 言葉は曖昧なまま、その先の未来につなぐ余韻を残して… お互いの、その後の、それぞれの、「物語」は、再び逢うときの大きな「お土産話し」になるのです。 ほら、恋人と駅のホームで「またね」と別れを言った後、「ただいま、信号機の故障でしばらく出発を見合わせております…」などとアナウンスが入った時のことを思い出してください。 友達と「じゃあ」と別れた後、次のブロックでばったり再会した時のことを想像してください。 シラケるでしょう? だって、もう話す言葉もエピソードも無いのですから。 そう、お互いが別れた後に、あんなことも、こんなこともあればこそ、その後の再会はまた格別なものとなるでしょう。 だから、決して先を急ぐことはありません。 あの人は、あなたが先を急ぐことを望んでいますか。 あなたのこの世での沢山の人生の思い出話しを望んでいるのではないですか。 「じゃあ」「また」「では」のその先の物語へ、お互いは歩みだしました。 でも、またいつか再会したときには、あなたの日々のエピソードがあの方への最高の土産話しになるのです。 そう思えばこそ、日々の小さな出来事もきっと変わって見えてくるはず。 それまで、あなたの心のポケットにあなたの大切な人生の思い出を、詰め込んで、詰め込んで、詰め込んで…。 もうこれ以上ないというほど詰め込んで。 この世のご縁が尽きたその時には、極楽の華の臺(うてな)にて、「あなたと別れた後にこんなことがあってね…」、そう言いながら心のポケットから一つ一つ取り出して、思い出話に花を咲かせてください。 さようなら、じゃあ、また、では… もうお互いは、その先の物語に向かって歩みだしています。 下を向く日もあるでしょう。 それでも、あなたの一歩一歩はその先の未来に歩みを進めています。 上を向いたら思い出してください。 あの人も、きっと同じ思いでいることを。 「さよなら」は別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束… 大切な方と死別されたご遺族へ、この言葉を捧げます その約束を胸に秘め、今日も一日をあなたらしくお過ごしください。 「サヨナラ」… これまで耳にした別れ言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない                           アン・モロー・リンドバーグ Sun, 06 Nov 2016 18:06:19 +0900信州善光寺参拝と真田幸村ゆかりの地を巡るhttp://www.jyoushinji.net/News/view/1/89http://www.jyoushinji.net/News/view/1/89団体ツアー参加者募集 : 団体ツアー参加者募集 善光寺は私たち浄土宗の七大本山のひとつに数えられますが、「遠くとも一度は詣れ善光寺」と言われるように、宗派関係なくすべての人の信仰を集める歴史ある寺院です。宿泊は信州千曲の名湯「上山田温泉」。二日目はNHK大河ドラマの真田幸村ゆかりの地を散策します。ご家族やお友達をお誘いして是非ご参加下さい。               記    日 程  平成28年11月15日(火)~16日(水) 参加費  39,800円  行 程  15日 8時30分 浄信寺出発~長国寺(真田家菩提寺)~昼食~善光寺参拝~宿泊(上山田温泉) 16日 ホテル~上田城跡公園、真田丸大河ドラマ館、真田神社・博物館~昼食      ~午後の予定はリクエストにより決定いたします~浄信寺着 17時30分 第一次〆切 10月15日迄にお申込み下さい                                                                   以上 ・参加費等の費用は当日集金致します。 ・数珠・袈裟をご持参ください。袈裟の無い方はお寺から貸し出します。 ・当日は動きやすい服装で構いませんが、参拝がありますので、華美にならないようにご配慮下さい。(男性 は襟付きシャツ、ジャケット着用が相応しいと思います。) ※申し込み浄信寺まで電話または、FAX、郵送、メールにて。   (FAX、郵送、メールは、「氏名」「住所」「電話番号」「参加人数」を書き添えて下さい)。 ※浄信寺檀信徒、一処廟・夫婦墓会員の方以外のご参加も歓迎いたします。 (☎・FAX 0463-32-5796 〒259-1217 平塚市長持337) Sat, 01 Oct 2016 09:35:52 +0900お葬式をめぐるエッセイ 其の16http://www.jyoushinji.net/News/view/1/88http://www.jyoushinji.net/News/view/1/88我が家の仏事ファイル :  浄信寺では檀家様や一処廟・夫婦墓の会員様向けに、「我が家の仏事ファイル」をお渡ししています。シンプルな2穴ファイルですが、お寺からの配送物や仏事に関する気になった新聞記事などをファイルしておくものです。  また、年回法要や年中行事などのメモ書きなどを記して残し、世代間で共有することもできます。○回忌には誰を呼んで、誰が卒塔婆を建てて、どのような食事を振る舞って…等々。  お寺や法事の事は妻がやっていた…、おじいちゃんがやっていた…、しかしご本人がご逝去された後は、お寺の事や仏事の事がまるでわからなくなってしまった…。そのようなケースは多いのではないでしょうか。  勿論、このようなことは施主をはじめ、家族皆で共有しておくことが大切ですが、実際は誰かが一人で行っているのが現実でしょう。万が一の時になって慌ててしまわないよう、仏事に関することは一つのファイルにして仏壇の脇などに備えておくと良いかと思います。また、エンディングノートのように、ご自身の希望などもファイルに残しておくのも良いでしょう。とにかく、それらを一つにまとめて皆がわかる場所に置いておくというのがこのファイルの役割です。(勿論、100円ショップのものでも良いですね…)  仏事の世代間の伝承は大切なことです。同じ死生観、その死生観にそった伝承の儀式、これはご先祖様から、祖父母、父母、そして子供たち…「皆が同じ方を向いて旅立って往く」ことを意味します。  残念ながら私たちは皆かならず死にます。そして、それは明日かもしれません。その死は私の死かもしれませんし、あなたの一番大切な人の死かもしれません…。愛する人との死別の悲嘆をケアするのが「グリーフケア」ですが、生前から死生観なりを共有しておくことでその悲嘆を深めないためのケアもあるのではないでしょうか。何かをきっかけに、仏事に関することに興味を持ったり、話し合ったりすることがあればと思っています。このファイルがそのひとつの機縁となればと思っております。 Tue, 27 Sep 2016 17:13:59 +0900平成28年度秋季彼岸会・一処廟/夫婦墓合同供養 報告http://www.jyoushinji.net/News/view/1/87http://www.jyoushinji.net/News/view/1/87一処廟・夫婦墓 会員の方へ : さる9月22日(秋分の日)、午前11時より浄信寺恒例の秋季彼岸法要、午後2時より一処廟・夫婦墓合同供養を厳修いたしました。激しい雨の中にもかかわらず多くの方にご参会頂き、厳かななか滞りなく法要を行うことが出来ましたことをこの場をもって御礼申し上げます。 浄信寺永代供養廟「一処廟」・「夫婦墓」では、このように年二回(春秋の彼岸)、ご安置の故人様の読み上げ供養を行っております。次回は来年の春分の日となりますが、「浄信寺だより」で再度ご通知をさせて頂きます。 なお、ご参加は自由となっております。法要時間は1時間ほど(法話を含む)です。 以上、本年度の秋の合同法要が懇ろに行われましたことを謹んでご報告させて頂きます。   合掌                                         平成28年9月23日                                         平塚市長持三三七                                          浄土宗 浄信寺 Fri, 23 Sep 2016 09:51:33 +0900宗教と無宗教 ⓶http://www.jyoushinji.net/News/view/1/85http://www.jyoushinji.net/News/view/1/85なぜ人を殺してはいけないのか? : (…続き)  すこし前になりますが、「なぜ人を殺してはならないのか?」という若者の問いが話題になりました。これに対して大の大人たちは困惑しながらも様々な場で議論になったことを覚えている方もいるでしょう。  この議論に関して、高名な文筆家や哲学者の方が一生懸命に答えを導こうとされましたが、残念ながら結局どのような結論に達したのか私にはわかりません。いや、それは私の勉強不足によるもので、仮に誰もが納得し得る理屈というものが既に導けているかもしれません。しかし、もしそうであるならば今の世の中から殺人は無くなっているはずです。   いや、納得し得る理由があっても、人は理屈だけではコントロールできないという生き物なのではないでしょうか。目の前の人に人を殺してはならない理由をいくつも並べ、「はい論破!」と言ったところで、カッとなった相手に「うるさい!」と殺められてしまう可能性はあるのです。  「なぜ人を殺してはならないのか?」という若者の問いに、「そんなことダメに決まってるだろう!」とタジタジになってしまう大人が殆どでしょうが、しかしこの「理屈じゃないけど、悪いものは悪い」、「とにかく気持ちが落ち着かない」という身体感覚(?)のようなものが具わっているということはとても大切なのではないでしょうか。そして、このような感覚というものは、幼いころからの宗教的な環境において涵養されていくのではないかと(我田引水ですが)感じております。  人の心は理屈だけではコントロールできないものです。勿論、知性をフル稼働させて自分を戒めることも大切ですが、知性を持った人だけが間違いを犯さない訳ではありません。人は弱く、間違いを犯しやすいものです。自らの犯した(或は犯す)罪を合理化することにだって知性は役立つのです。知性でもって、人を殺めてはいけない理由はいくらでも挙げられるでしょうが、逆に人を殺めて良い理由も同じ数ほど考え付くのが人間というものです。 「理屈じゃないけど、悪いものは悪い」、「とにかく気持ちが落ち着かない」という理屈を超えた身体感覚が歯止めになることだってあるのです。  何度も言いますが、これはその人が育つ環境のなかで培ってゆくものなのでしょう。その意味で、伊集院光さん型の「無宗教」(勝手に命名させて頂きました)を宗教者は無視してはならないのだと思います。  私達僧侶はとかく「無宗教」を一括りにして否定的にとらえる傾向がありますが、様々なお考えがあることはしっかりと認識しておかなければなりません。いえ、日本人的なこのような宗教「的」感性をもっと自覚的にとらえ、大切に育んでゆくことが私たちの役目なのではないかとさえ思っています。   Tue, 23 Aug 2016 10:53:19 +0900宗教と無宗教 ①http://www.jyoushinji.net/News/view/1/84http://www.jyoushinji.net/News/view/1/84日本人と無宗教 :  タレントの伊集院光さんがラジオで発言したことがインターネットの掲示板で話題になっていました。内容は、「私は無宗教だけど、お地蔵様を蹴とばすことは出来ないし、期限切れのオニギリを踏みつけることは出来ない、これってなんなんだろうねぇ」というようなものです。これに対して、若者たちの書き込みがほぼ共感のものでした。「平気でお地蔵さんを蹴とばすことができるような世代が出てきたら日本はお終いだな」、というような書き込みがありました。何とも頼もしいことです。  現代の日本人の多くは「無宗教」を標榜します。しかし、これは伊集院光さんのようなお考えの無宗教ということでしょう。自分の宗教的な感性というものが、○○宗であるとか、○○教という教えにカテゴライズされることを嫌うのかもしれません。また、彼らにとっての「宗教」とは、自分の信仰を絶対とすることで他者の信仰は絶対に認めないという独善的で排他的な姿勢に感じるのかもしれません。別の言い方で言えば他の立場や信仰をリスペクト出来ないという姿勢です。  つまり、無宗教を標榜する多くの日本人にとっての『宗教』とは、自身の信仰と反するからと言って、「平気でお地蔵様を蹴とばし、米粒を大切にしないと目がつぶれるなんていう迷信なんてバカバカしいと言って、平気でオニギリを踏みつけること」を当たり前に出来てしまう危険を孕んでいるもの…と映るのかもしれません。  日本人の多くは宗教に寛容です。寛容だからこそ、他の信仰を認めないという宗教の持つある種の不寛容を許容できないのです。勿論、無宗教という人のなかには、「神仏なんているわけがない」、「死んだらお終い」、「葬式なんてくだらないものは必要ない」、「石に手を合わせるなんてバカバカしい」「宗教なんて弱い奴が信じるものだ」という姿勢の人も居ます。しかし、このような排他的で他の信仰を尊重しない頑なな物言いは、彼らが忌み嫌う「宗教」の最も悪い面において同質のものにも感じます。  「無宗教」と一括りに言っても、宗教に寛容ゆえの無宗教の立場もあれば、宗教に不寛容な意味での無宗教もあるということです。 Tue, 23 Aug 2016 10:43:58 +0900終活・エンディングノートについて④http://www.jyoushinji.net/News/view/1/79http://www.jyoushinji.net/News/view/1/79終活は「宗活」 : 人間関係を煩わしいと感じるのも理解できないことではありません。しかし、その関係をすべて絶つような最期は極端に振れてはいないでしょうか。「エンディング」は亡くなって行く者の目線であり、残される側からすればそれは「あなたのいない生活」のスタートであることは以前もお話いたしました。「それでも」生きて行かなければならない人々にとって、「迷惑をかけたくない」という思いが逆に迷惑になってしまう可能性もあるのです。 ある方は、父親の「迷惑をかけたくない」という希望でお葬式をあげなかったことを今でも悔しく思っています。 「あんなに人に尽くした父親に「ありがとう」を言いたかった人達の思いを受け止めることもできず、あんなに世間に世話になった父に成り代わって「ありがとう」を言う場も与えられず、自分は何も出来ずにひっそりと父親を送ってしまった。自分は父から「迷惑をかけたくない」と気遣われるような小さな存在だったのか。父親は最期まで私を子ども扱いしていたのかと思うと悔しくて、そして永遠に父親を超えられないという思いに打ちひしがれた…。父親を葬ることができなかった。これは私が死ぬまで抱えていく負債のように感じた。生前にもっと父親と死の周辺のことについて話し合っておけばよかった。「あんたの葬式くらい、俺が盛大に出してやるから」と言い返してやりたかった…」 一人の人を肉体的に葬ることだけではなく、社会的な存在としても葬ることは大変なことです。しかし、残された人々はそれを葬ることで次のステップに向かえるのかもしれません。また、愛する人との別れに後悔はつきものです。「なぜあんなことをして(言って)しまったのだろう」「なんで、もっとああしておかなかったのだろう」と。そしてそのことは死を以って永遠に解決されぬ後悔となって残された人々を縛り続けるかもしれません。しかし、日本人は死者と現在進行形のコミュニケーション手段をとりながらその後悔と折り合いをつけていくこともできるのです。 配偶者を喪った際などに、残された人が罪悪感をおぼえることもあるようです。「あなたがあんなに楽しみにしていた孫たちの成長を見ることもなく、私一人が孫たちに囲まれ幸せな生活をしていることが申し訳ない…」など。しかし、故人とのコミュニケーション手段をもっていることで、そのやり場のない思いを吐き出すことができるのです。 「あなた、ただいま無事に入園式をすませてきましたよ。本当に大きく育ちましたね。ほら、○○ちゃん、ジイジにいつも見守ってくれてありがとうってナムナムしましょ。」このようにして、亡き人とのコミュニケーションの場と手段を持つことが日本人の死者との関わり方だったのです。 「あの人は死んでしまった」そう理解しようとしてもそれを受け入れることは容易ではありません。一方、「あの人は死んでいない」そう思い込もうとしても普段の社会生活の中ではその人の死を受け入れなければならない場面に何度も遭遇します。どちらの立場も、その都度心に大きな負担がかかります。そして、無理を通せば心の傷にもなりかねません。 日本人は、「あの人は(肉体的、社会的には)『死んでいる』けど、(霊的な存在としては)『死んでいない』」という相反する立場をその死生観の物語の中に持っているのではないでしょうか。そして、場面に応じてこの狭間で「揺れる」ことが出来ます。社会的には「あの人は亡くなりました」と言いながらも、辛いときには仏壇や墓前で「あの人」と語り合うことを奇妙な事としないのが日本人です。 通夜から葬儀~法事といった流れは、この物語と世界観を手に入れるための大切な儀式なのです。この世界観の中で「揺れる」ことで、個々の人は悲しみと折り合いをつける術を身につけて行くのです。 残された人々は自らの力で悲嘆と向き合っていきます。このような主体的な喪の作業をグリーフワークと言います。ご遺族は故人が残した言葉や想いを頼りにその現実を受け止めようとします。しかし、故人の遺した言葉や想いが残されたご家族の悲嘆を深めたり、一歩踏み出すことの足かせになることもあるのです。自身が死んだ後ではそのようにして悲嘆に暮れるご家族をこの腕で抱きしめることも、声を届けてフォローすることも叶いません。一方、故人の遺した言葉や想いが、残された人々の悲嘆を誰よりも癒してくれることもあるのです。 死別の悲嘆にある人をケアすることをグリーフケアと言いますが、この悲嘆を深めないための予防としてのケアもあるのではないでしょうか。それは死別によって大きな心の痛みを感じるであろう相手と生前から宗教観や死生観を共有しておくことです。それはあなたが愛する人とお互いが死別の悲嘆を深めないために生前にできるケアです。その意味で、終活は「宗活」でもあるのです。Sat, 11 Jun 2016 09:43:43 +0900終活・エンディングノートについて③http://www.jyoushinji.net/News/view/1/78http://www.jyoushinji.net/News/view/1/78HOW TOからWHYへ(つづき) : 「日本の祭の最も重要な一つの変わり目は何だったのか。一言でいうと見物と称する群の発生、すなわち祭の参加者の中に、信仰を共にせざる人々、言わばただ審美的の立場から、この行事を観望する者の現れたことであろう。」                      (柳田国男「日本の祭」より) また、かつてのお葬式は村のお祭りに似ていました。地域に伝承されて来た儀式を長老が指示をし村全体で執り行いました。このような知識や経験を蓄積したお年寄りの役割は村の頼りでしたが、お葬式が地域から切り離されたのちは、そのような年配者の役割はなくなってしまったように思います。 代わりに知識や経験を集積した葬儀業者によって儀式を代行させるようになります。そのことによって日本人の死生観をもとにしたお葬式という「物語」の中にいた人々は、その外縁部に置かれてしまったのです。かつてのお葬式では葬儀業者はハードの面のみを担っていました。あくまでも物語の主導権をもつのは施主であり地域社会です。 物語の中にあり、それを体験している人々にとって、それは物語ではなく「リアル」な現実です。祭の熱狂や、宗教の法悦体験している人にしか見えない世界観なのです。しかし、その儀式を代行させている消費者としてその外縁部に置かれることによって、物語は物語として顕在化してしまうのです。それは自身のリアルな問題としては疎遠に映り、葬儀業者から「与えられた」ものとして祭を見物する人々と同じ目線に立ってしまったのです。 かつては(お葬式の)物語の輪の中の者としては、どのように動くのか?という「HOW TO」は問われますが、「WHY?(なぜお葬式をするのか?)」という本質を問われることはなかったのかもしれません。しかし、人々がその外縁部からの視点をもつようになった現代においては、その儀式は形骸化したものに映るのかもしれません。 それでも尚、マスコミや業者主導の終活で取り上げられるのは「HOW TO」としてのお葬式というのが現実です。一方、そもそもお葬式に意味を見いだせない人にとっては、「HOW TO」すら興味がありませんし、「HOW TO」だけを問う従来の在り方にこそ意味を見いだせないのでしょう。 だからと言って昔のお葬式に固執し、かつてのやり方に回帰すべきと言うつもりはありません。しかし、かつてのお葬式が悪いわけでも無意味なわけでもないはずです。社会状況が変化し、人々のマインドもそれに合わせて変わってしまったのです。そのことを度外視し、ただ単にお葬式は不要、意味がないと切り捨ててしまうのは早計です。社会が変わっても、ライフスタイルが変わっても尚、変わらないものもあるはずです。 いくら時代が進んで科学万能の時代になっても自身の死の恐怖や愛する人との死別の悲しみは変わらないのです。お葬式の本質はそのような死に際して、一人称として、また二人称として、あるいは三人称としてもどのように向き合って行くかということでしょう。かつてのお葬式もその意味では人々の死に向き合う知恵と経験の集積だったはずです。 形としては時代にそぐわないものもあるのかもしれませんが、だからと言って、その本質であるエッセンスまでをも捨ててしまうことは果たして良いことなのでしょうか。 今こそ、お葬式を「HOW TO」だけを問うのではなく、「WHY?(なぜお葬式をするのか?)」と問うきっかけとなる終活が求められるのではないでしょうか。 (次回へ続く)Mon, 06 Jun 2016 07:44:53 +0900終活・エンディングノートについて③http://www.jyoushinji.net/News/view/1/77http://www.jyoushinji.net/News/view/1/77HOW TOからWHYへ : 「地域の人たちが総出で葬儀を手伝い、亡くなった順番に集落の墓地の土葬されるのが当たり前だった時代には、家族の有無にかかわらず、自分の死後に不安を持つ人は少なかったはずだ。昨今、死に方や葬儀の選択肢が増え、さまざまな情報が飛び交う反面、「どんな葬送がいいのか」「誰がやってくれるのか」という不安が増大してきたのは、持ちつ持たれつの互助関係が消滅し、社会の無縁化が進んできた結果、私たちは葬儀や墓など、サービスや財を購入する消費者の立場に置かれるようになったからに他ならない。」 (既出「中央公論」2014年9月号「終活戦線異状あり」より)  本来お葬式に「自覚的な」消費者という人はいませんでした。ここに関わる全ての人がその儀式を遂行する何らかの役割を担っていたのです。しかし、人々のライフスタイルの変化や地域の互酬性が失われ、遺族や地域が担っていた役割を葬儀社が代行するようになりました。その結果として葬儀費用が肥大化して行くのですが、そのことは顧みられずに「お葬式は高い」「意味が分からない」というネガティブな面ばかりがマスコミで取り上げられます。 「葬祭業者は、死の変換を行わなければならない遺族などの依頼を受けた代理人として、死の変換を代行することとなる…葬祭業者が代理変換を重ねていくうちに、依頼者が死の変換に関する知識を所持することが困難になっていく。…つまりエージェント側に圧倒的な知識の集積が起こって、情報の非対称性が生じているのであった。…エージェントである葬祭業者が、実質的に死の変換を行うような状況が生まれるようになっていった…」 (既出「現代日本の死と葬儀」より) かつてのお葬式とは、葬儀社のものでもなく、僧侶のものでもありませんでした。一人の人の死をめぐり、そのご縁のあった人々がその社会的損失をどのようにして埋め、あるいは引き継ぐのか、またその死をどのようにして受け止めて行くのかというコミュニティの問題、そして自分自身の問題であったはずです。それを葬祭業者との金銭の契約によって代行させるようになったことによってその意味は大きく変わってしまいました。 「人間関係が煩わしいから」「お葬式にかける時間と手間が勿体ないから、面倒だから」という理由で業者に代行してもらった結果として費用が増大しただけではなく、お葬式そのものに対する意味も大きく変えてしまいました。しかしながら、それを度外視したお葬式不要論がマスコミを中心に広がっております。 果たしてお葬式そのものが本当に不要なのででしょうか。私たちのご先祖様たちは意味の無いことを行っていたのでしょうか。私はそのようには思いません。現状に至る歴史的な流れを度外視したお葬式不要論は、本質を見誤るものであると感じています。 勿論、ひとつひとつの儀式になかには時代的にはそぐわない部分もあることは確かかもしれませんが、その儀式にも「なぜそのようなことをするのか?」という本質的な意味があるはずです。表面は錆で覆われていても、それをブラッシングして行くとなかからその姿が現れると思うのです。現在の不要論は、その錆だけを見て捨ててしまおうという動きに思えてなりません。 一方で、私たち僧侶はただ頑なにそれに抗うのではなく、その本質的な意味をきちんと説明しなければならない時代にあるのではないかと感じています。その儀式の「HOW TO」だけではなく、「なぜお葬式をするのか?」という本質を今だからこそ論じる必要があるのでしょう。(次へ続く) Mon, 06 Jun 2016 07:41:16 +0900終活・エンディングノートについて⓶http://www.jyoushinji.net/News/view/1/76http://www.jyoushinji.net/News/view/1/76終活は結縁の活動 : 前回は、エンディング・ノート、エンディング産業といった「エンディング」はあくまでも旅立つ側の視点であり、残される側からすればそれはエンディングではなく、悲嘆や喪失体験としての「スタート」であることをおはなししました。これは昨今の「終活」ブームにも同じことが言えるでしょう。 「介護や終末期医療、葬送などについて自分がどうしたいかをあらかじめ伝え、「あとは任せる」に一言を伝える人がいれば、多くの高齢者に不安は軽減できるのではないだろうか。その意味では、終活ビジネスが煽動するブームは、高齢者をますます不安にさせている側面があるように思えてならない」                      (中央公論2014年9月号「終活戦線異状あり」より) 第一生命研究所の小谷みどり氏は、昨今の終活ブームを葬祭関連業者の「煽動」と手厳しく評価します。長年に亘り現代の葬儀事情を調査してきた彼女にとって、昨今のにわかな終活ブームの向かう方向に違和感を覚えるのも確かなことなのでしょう。 「終活で大切なことは、遺族や周りにかけるであろう手間を「迷惑」だと思わせない人間関係を築いておくことではないか。…介護が必要になったり、死を迎えたりすれば、どんなに事前準備をしていても、自分で実行することができない以上、自分の思いを理解してくれる人に代行してもらうしかない。人生の終焉を考えることは、家族や周りの人との関係を見直すきっかけにもなる。」  (同上「中央公論」より) かつての地域社会の負の面として、「村八分」のような排他性が挙げられます。しかし、残りの二分、つまり火事と葬式には手を貸すのです。火事と言えば現代では行政サービスが対応します。しかし、このような急場ではすべてを行政に任せるわけにはいきません。消防車が来るまで眺めていたのでは、自分の家まで延焼してしまいます。 消防などの行政サービスが行き届かない時代だけではなく、現代においても震災などの大災害では行政も混乱して対応できないこともあるでしょうし、当然のことながらお金が助けてくれる場面でもありません。とにかく一時的な急場としての住民の「自治」が求められるのではないでしょうか。 このように目の前の現実として起きている危機が火事だとすれば、人の死は目には見えないクライシスです。それは一人称である故人の「みたま」の危機ということのみならず、死別の悲嘆という二人称における魂の危機です。葬儀とは、亡くなった人間のみたまを浄化することのみならず、一人の人の死の衝撃を、その故人の所属する社会集団が如何に受け止め、処して行くのかという知恵と経験の結晶であったのではないでしょうか。 「死の変換方法としての葬儀は、死者本人だけではなく数世代にわたって当事者の所属する社会集団の生活領域に内在的に蓄積された資源を動員して執行された。それは特に本人が意識して死の準備として行っていたものというよりは、生活を送る中で自然に蓄積された資源であり、世代を超えた互酬性として機能していった。そのため、システムは安定しており、葬儀は死を通じて生を肯定するイデオロギー装置としても機能し、さらに現状の社会システムを維持強化するようなイデオロギー装置としても機能していた」                       (「現代日本の死と葬儀」山田慎也著 東京大学出版会) そこには誰が居て、その人はどのような人であり、どのようなことができる人なのか、また何を持っていて、何を持っていないのか、災害のような急場ではその地域にある物理的・人的な資源を総動員して対応することが求められます。 かつてのお葬式の場でみられた「お互いさま」の絆は、災害のような現実問題としての急場でも地域力を発揮するシステムを強固にするものであったのかもしれません。(次回へ続く)Thu, 02 Jun 2016 07:42:10 +0900終活・エンディングノートについてhttp://www.jyoushinji.net/News/view/1/75http://www.jyoushinji.net/News/view/1/75エンディング・ノート : 近頃エンディングノートについての話題をよく耳にします。 先日も、「残される家族のために、エンディングノートを書いた。万が一の時にはタンスの中の風呂敷を開けるようにと言ってある…」というようなことを話す人がいました。 勿論、自分の最期のスケッチをしておくことは大切なことかもしれません。しかし、いざ万が一の時に風呂敷を開いて「私の骨はエベレストの頂上に撒いてほしい」などと書いてあったら遺族も大変であろうに…、などと余計な心配もしてしまいます。 このような極端な例はともかく、エンディングノートをどのように位置づけるかにより、場合によってはそのノートが残される遺族の「足かせ」になることも考えなくてはならないことは事実でしょう。 愛する人がこの世に居る限り愛別離苦は誰も免れることはできません。死別を経験してからなされるケアをグリーフケアというのならば、愛する人が悲嘆をより深めない為に生前にできる予防策としてのケア(気配り)もあるのではないでしょうか。そしてそのケアができるのは、誰よりも旅立って行くその本人なのかもしれません。 残念なことに、あなたの死後、あなたはその声で家族を癒すこともできなければ、その腕で家族を抱きしめることもできません。あなたの大切な方が、大きな悲嘆を抱えないように、あなたが今できることは何でしょうか? 「万が一」の時ではもう遅いのです。エンディングノートを、残される人の為に「旅立つあなたが今できるグリーフケア」という観点から考えてみるのも良いのではないでしょうか。 現代ではとかく一人称(私)の死ということでのみお葬式を語る傾向があります。しかし、死の恐怖とは決して「私」が死ぬことだけはなく、「あなた」を喪うことも含めたものであることを忘れてはなりません。 葬送儀礼の正統的な伝承がなされなくなり、人々が共有した死の周辺の「物語」も消滅しようとしています。そのような時代にこそ、何よりもまず、死別した後も続く物語、つまり死生観や宗教観を大切な人と生前から確認し共有していく事が必要であり、そのような場において僧侶が果たす役割があると我々は考えています。 「エンディングノート」「エンディング産業」等々、エンディングという言葉が流行しています。しかしあなたの死は、あなたにとっての「エンディング」でも、あなたを大切に思う人々の視点では悲嘆や喪失体験の「スタート」であることを忘れてはならないのではないのでしょうか。Tue, 24 May 2016 09:46:22 +0900お葬式をめぐるエッセイ 其の15http://www.jyoushinji.net/News/view/1/74http://www.jyoushinji.net/News/view/1/74供養について②「供養はしないでほしい」 : 私が亡くなったら「供養はしないでほしい」 最近ではそのような言葉もよく耳にします。 「供養」という言葉は、サンスクリット語のプージャー(pūjā)の訳で、辞書には「尊敬をもって、ねんごろにもてなすこと」「宗教的偉人などに敬意をもって資具などを捧げることをいう」とあります(「岩波仏教辞典」より)。 つまり、私が亡くなったら供養はしないでほしいということは、「私が死んでも尊敬をもって、ねんごろにもてなさないでほしい」ということになるでしょう。 しかし、亡き人に敬意をもつことももたないことも、それは残された人々の主体的な感情であり、亡くなる人がその感情を指示することも強要することも出来ない筈です。 大切な人に特別な感情を抱くことは当然のことです。 そして、それは死を以ってお終いになるわけではないでしょう。 愛する我が子を喪った親が、その子の死を以って愛しむ感情を捨てることは出来るでしょうか。 「可愛い子だったわ」「楽しい想い出だった」などと過去のことに出来るでしょうか。 その子の死によって、その存在は更に「かけがえのない」ものと感じる筈です。 「尊敬をもって」という言葉は違和感があるかもしれませんが、相手との関係性によっては「敬意を持つ」でも「かけがえのないものと感じる」でも、「愛している」でも意味は同じだと思います。 相手に対して抑えきれない特別な感情を抱くことをそのままに表現すれば良いではないですか。 日本人はこのようにして亡き人を特別な存在として「供養」してきました。 たとえ相手が亡き人でも、現在進行形でその思いを伝える術を持つのです。 そして、これは残された人々の悲嘆の感情にも大切なことなのです。 グリーフケア(グリーフサポート)には思いを抑え込まずに吐き出すことが必要です。 辛い感情も、感謝の気持ちも、供養というかたちをとって亡き人に表現することができるのです。 「供養はしないでほしい」とは、残される人のそのような心情の発露を閉ざしてしまうことにもなりかねません。 故人の言いつけ通りに供養をしなかったことは後悔となり、後になって寺に相談に来る方も少なくはありません。また、自分たちの思いから供養をしたが、故人の言いつけを守らなかったことで後悔をする人も居ます。 「供養はしないでほしい」という人の「宗教嫌い」も理解できます。しかし、もしそうであるならば「(残された)あなたたちの思うようにしていいんだよ」で良いではないですか。 言い遺した言葉が、その人の死後も残された人々の心を(それこそあなたが思い描く宗教のように)支配し続けることになりかねないことを念頭に置くべきです。 そのような人々をケアする術は、亡くなった人にはもう出来ないのですから。 残された人は、故人に対して果たされなかった思いや、後悔の念を永遠に解決できない問題とせずに、「供養」を通じて亡き人と関係性を持ち続けることで「折合い」をつけて行くことも出来るのです。 「供養はしないでほしい」とは、その恢復に向けての物語も時間的猶予も残される人々から奪ってしまうことになりかねないのです。 Thu, 25 Feb 2016 09:56:06 +0900第10回『つるし雛展』http://www.jyoushinji.net/News/view/1/73http://www.jyoushinji.net/News/view/1/73つるし雛展について : 第10回「つるし雛展」 浄信寺恒例の「つるし雛展」が2月26日(金)、27日(土)、28日(日)の三日間開催されます(連日9時より16時まで)。 今年で10回目の開催となり、折り紙などの特設コーナーもございます。 当日は、約6000個のつるしびなをお飾り致し、皆さまのお越しを心よりお待ちしております。 ※駐車場に限りがありますので、会場へお越しの際はなるべく公共の交通機関をご利用して下さい。 平塚駅から来られる方は、8番乗り場をご利用し、「秦野駅行」に乗車、「長持」バス停で下車して下さい。 お気をつけてお越しください。 Mon, 18 Jan 2016 14:37:06 +0900お葬式をめぐるエッセイ 其の14http://www.jyoushinji.net/News/view/1/72http://www.jyoushinji.net/News/view/1/72Amazonの僧侶派遣 ③ : 安いものが買えることは喜びでもありますが、無自覚にそれを追い求めた結果、いつしか安いものしか買えない構造になってしまいました。どこかの国の、貧しい人々が安い賃金で働いた結果得られる豊かさの享受は、常にその貧しい人々を必要とします。世界中で格差は広がり、貧富の差は固定化されます。 どの都市に行っても同じコーヒーショップ、同じハンバーガーショップ、商店街は無くなり大手のショッピングモールに変りました。やがて、お寺も無くなり、お手軽でお安い文化が街に溢れるでしょう。勿論それが人々のマインドであるのならば仕方がありませんが、その文化は往々にして大企業の会議室で創られるものなのです。次々と新たに「提案」されるものに、無意識に乗せられているというのが消費者のマインドなのではないでしょうか。逆に言えば、資本主義社会において、消費者の意識と消費行動によって企業も変り、社会も変るのでしょう。 供養に対してのお布施を「消費行動」と言うのは気が引けますが、まさにこのアマゾン等の動きはそのような意味を持ちます。 今までは、「取られる」という意識であったお布施も、その「行く末」を考えてみるとまた考え方も変わって来ると思います。 派遣されるお坊さんの個人的な収入になるか。 また、お坊さんからのピンハネは世界的グローバル企業の利益になって世界に流れていくのか。 或いは、あなたが生まれるずっと前からこの国の地域の祈りの場であったお寺を護持する為に使われるのか。 お寺が「消費」という経済活動に巻き込まれる時代にある以上、お坊さんの側もきちんと社会に対して提案して行かなければなりません。 供養が経済活動として消費されるとき、あなたのお布施が社会に対しどのようにフローして行くのかを考えてみませんか。 あなたの消費活動は誰にも縛られない自由があると同時に、社会のあり方を変える力があります。 お寺では、お布施を「もらう」とは言いません。「お預かりします」と言うのです。 「預かる」とはその先のフローに責任を持つということです。「俺のものだから何に使おうが勝手だろう!」ということではないのです。それは宗教的な変換作業を経て、社会に貢献するようでなくてはなりません。 菩提寺の無い方でも、ワンクリックする前にあなたの地域のお寺に足を運んで法事の相談をしてみてはいかがでしょか。 万が一、寺を私物化し、貧しい人からも平気で高いお布施を要求するような住職もいるかもしれません。その際は、私が謝って済むことではありませんが、大変申し訳なく思います。「それでもお寺を護持する住職か!」と。心の中で叫んでください。いや、直接言っても構いません。 とにかく、お坊さんが第一に変らなくてはならないことは言うまでもありません。しかし、繰り返しになりますが、お坊さんのことは嫌いでも、お寺は嫌いにならないで下さい! そう祈る思いでおります。Tue, 08 Dec 2015 12:19:16 +0900お葬式をめぐるエッセイ 其の13http://www.jyoushinji.net/News/view/1/71http://www.jyoushinji.net/News/view/1/71Amazonの僧侶派遣 ② : さて、話は当初のAmazon(アマゾン)に戻りますが、果たしてここから派遣されるお坊さんはどの様な立場で派遣されて来るのでしょうか。 僧侶個人で活動しているならば当然お布施は彼の所得として申告されるのでしょう。Amazonが仲介するのですから、中間マージンを抜かれた金額が支払われるのでしょうか。 或いはAmazonがお寺のようにお布施を集めて、そこから報酬としてお坊さんにいくらかが支払われるのでしょうか。どちらにしても、そのお坊さんたちは自身の生活の為にお布施を頂くということですね(勿論、それを批判するつもりはありません)。 中には、地方の疲弊したお寺を維持する為に泣く泣く派遣登録をするお坊さんもいるかもしれません。実に涙ぐましいことです。そのようなお坊さんが派遣されて来たら、お気持ちのある方は是非定額以外に本当の意味で「布施」をしてはいかがかと思います。 勿論、お寺を持っていない僧侶が悪いお坊さんではありません。お寺が無くても志の高いお坊さんは沢山います。ただ、必ず所属寺院というものがある筈です。中には何宗のお経でもあげますと葬儀社さんに売り込んでいるお坊さんもいると聞きます。誰でも良いというのならば素人でもお経はあげられます。そのような人に何万円もの大切なお布施をすることは果たして顧客満足としていかがなものでしょう。供養して下さるお坊さんがどのような素性の方なのかをちゃんとチェックできなければ可笑しな話です。 とにかく、「運ばれてくる」お坊さんがどのような人なのか見極めることは、消費者であるのならば当然のことです。商品やサービスは均一であり、産地なりスペックなりが情報開示されてこそ定額制も機能するのでしょう。供養の場に訪れたお坊さんを「返品」はできないのですから、事前にその情報公開を渋るようでは、天下のAmazonの信用も落ちるというものです。 冒頭に述べたように、「そこまでして供養をしたいか?」とは皮肉ではなく、まだそのような気持ちが人々の心にあるということを有難く思います。 しかし、それでもこのような派遣のお坊さんが増える背景には、これまでの伝統仏教のお坊さん達の怠慢と驕慢の態度が最大の原因としてあるのでしょう。 私もその中の一人として、全力で変わらなければと切に思っています。 しかし、時代の流れは我々も追いつかないような速さです。そこにはもう祈るような願いしかありません。何度も言いますが、お寺は住職のものではありません。社会としての公共財です。それを一部の住職が私物化してしまったことが、現代のお寺を取り巻問題の一端にあると考えます。AKB48の前田敦子さんではありませが、どうかお坊さんは嫌いでも、お寺は嫌いにならないで欲しいのです。 「寺院崩壊」は音を立てて進んでいます。左うちわで生活しているように見えるのは都会のほんの一部の僧侶だけです。地方の寺では住職は雇えず、僧籍を持っているものも別の仕事を持ちながら自費でお寺を維持している人も多いと思います。少子化や過疎化が進み、数少なくなった檀家さんだけではお寺は守れないのです。 とにかくお坊さんであれば誰でも良い、とにかく供養をしてくれればそれで良い、というAmazon式の供養のあり方が示す時代の方向性は、やがてそれ自体が先細って行く運命を内在しています。 いや、Amazonからすれば10年先、20年先もこの形態で儲けて行こうとは考えていない筈です。まるで焼畑農業のように収穫できる時に収穫して、土地が荒れれば次の場所に移ってしまうのでしょう。 当たり前のことですが、お坊さんが変らなければならないのです。 しかし、時代の流れには腰の重いお坊さん達の意識は追いつかないでいます。 「お寺などという場所は社会には不必要だ」と考えているのならば構いませんが、私個人としてはお寺も神社も教会も、社会には必要な場所であると信じています。 そして、そのように考えている方も多いと思います。 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではないですが、憎い坊主と一緒にお寺まで消滅してしまうのは実に悲しいことです。 情けない事ですが、お寺を護るのはお坊さんではなく、檀信徒を含めた一般の方であると考えた方が良いのかと思っています。 いや、本来はそうなのかもしれません。 寺院護持、ひいては仏教の教え、或いは供養というものをお坊さんの専売特許にするのではなく、一般の人々が主体的な立場で関わるべき時代になるべきです。 皮肉なことですが、イオン、Amazon式の提供する供養のあり方は、本来お寺のあるべき姿を逆説的に浮き彫りにしてくれたのかもしれません…。 Tue, 08 Dec 2015 12:17:50 +0900お葬式をめぐるエッセイ 其の12http://www.jyoushinji.net/News/view/1/70http://www.jyoushinji.net/News/view/1/70Amazonの僧侶派遣 ① : インターネット大手通販サイトのAmazon(アマゾン)が、僧侶派遣業に参入するとのニュースが配信された。 お坊さん派遣業「参入」などと言うように、そのような動きはイオングループを始め、既に存在しました。しかし、今回はあのAmazonです。何と言いますか、まさに世も末、いや、かえってそこまでしてもお坊さんを頼みたいのか?そこまでして供養をしたいか?と逆に有難い気さえしてしまいます。 冗談はさて置き、このような料金定額を謳う派遣供養は一見親切に見えますが、裏を返せば「その定額を払えない人は、供養が出来ない」ということなのです。 マスコミなどで流布されるガメツイお寺など実はほんの一握りで、殆どのお寺は無い人からは無いなりの布施をお預かりしている筈です。一方、中には篤信者もいて、多額の布施をして下さる。そのようにして、お寺全体として経済が回って行くのです。 当たり前のことですが、皆様の地域にあるお寺の運営は誰かの布施によって賄われているのです。そのお寺を守る住職の報酬もそこから賄われています。宗教法人の行う宗教活動は無税ですが、住職の報酬には当然課税されるのです。お坊さんは税金を払っていないと思っている方が多いのですが、お寺という公益性を有する「法人」が税制面で優遇されているということです。 「最近、お葬式のお礼が安いからと言って神葬祭でやる人が増えているんだよねぁ」と、ある神社の氏子さんが嘆いていました。 それならば神社の収入も増えて良いではないかと思うでしょうが、彼らからすれば長い間その神社を守って来た矜持があります。スーパーを選ぶように、あっちが安い、こっちが安いと信仰の場を変えられる人達は、安価であるという理由で他の場に移ってしまうのは目に見えています。それではその信仰の場すらも安っぽくなってしまいます。神社としては一時的な収入にはなりますが、俯瞰して見れば衰退して行くのが目に見えています。 キリスト教のお葬式も安価で済むということです。しかし、聖書には所得の一割を寄付するということが書いてあるそうです。年収500万円の人ならば、毎年50万円です。勿論、それは努力目標のようなものでしょうが、信者の方はそのように寄付を出来ることを喜びと捉えているようです。まさに喜捨です。 一方お寺はひと世代に二度、数十万の大きな布施をするだけではないか、などと胸を張るつもりは当然ありません。お寺だって、檀家さんや信者さんから喜んで布施をされるような場でなければならないと思っています。 「そうだ!キリスト教は社会的な活動をしているが、坊主は何もしていないじゃないか!」と言われてしまえば言い返すことは出来ません。しかし、実際は皆様の知らない所で様々な活動をしている僧侶が多いのも事実なのです。 365日自らの時間を割いて、悩みを持つ人の相談に無償であたっているお坊さんも沢山います。そのような方が時々マスコミなどでも取り上げられることがありますが、その後の反応は、「私も助けて下さい」というものばかりです。時には「応援しています」などの激励もあるようですが、寄付(布施)をされるという方は皆無と聴きます。他にも、保護司や民生委員、教誨師など地域の活動を積極的に行うお坊さんは多い筈です。 勿論、彼らは寄附や布施が欲しい為に活動をしているわけではないのですが、そのようなお坊さんが活動できるのも、檀家さんや信者さんの日頃の布施があるからということを忘れてはいけません。 「葬式の時ばかり多額の布施を取りやがって」という批判は尤もですが、それ以外に寺や住職の生活を維持するための収入が見込めないというのも実状なのです。毎日遊び呆けているお坊さんならいざ知らず、そのように社会的な活動をしているお坊さんであっても、お葬式や法事の布施がなければやって行けないのです。 当然、不当な負担を強いる事があってはなりませんが、お寺を維持、管理している身の住職の立場としては、なるべく多く喜捨していただけるような姿を見せて行かなければならないと感じています。何しろ数百年も守り続けられた信仰の場であることを考えれば尚更です。 一方でそれを忘れ、お寺を私物化してしまう住職がいるのも現実です。高級外車を乗り回して…などと陰口を言われてしまうようでは実に情け無いことです。しかし、それもきちんと檀家さんが喜捨し、きちんと会計報告がされており、住職はその給与の中からやり繰りをしてのことならば、部外者の私がとやかく言うのは大きなお世話なのかもしれません(勿論、好ましいとは思いませんが)。 とにかく、皆様のお布施は第一にお寺の護持に使われる(べき)という事を念頭に置いて頂ければと思いますし、そのように活動するのが住職の役目だと思います。 Tue, 08 Dec 2015 12:09:05 +0900お葬式をめぐるエッセイ 其の11http://www.jyoushinji.net/News/view/1/68http://www.jyoushinji.net/News/view/1/68供養について①「供養はしなければいけないのですか?」 : 「供養はしなければいけないのですか?」 最近ではそのような質問をよく耳にします。 「供養」という言葉は、サンスクリット語のプージャー(pūjā)の訳で、辞書には「尊敬をもって、ねんごろにもてなすこと」「宗教的偉人などに敬意をもって資具などを捧げることをいう」とあります(「岩波仏教辞典」より)。 お経のなかにも、「仏に供養する」「阿羅漢に供養する」という言葉が頻繁に出て来ます。 仏とはブッダ、つまり悟りをひらいた人ですね。 阿羅漢とは、修行者の到達し得る最高位の方です。 もし、あなたの目の前にブッダが現れたとしましょう。あなたは思わず跪き恭しく合掌、礼拝をするかもしれません。阿羅漢を目の前にして、供物を捧げるかもしれません。修行僧は無一物で、経済活動をしません。このような信者からの心のこもった寄進で活動が成り立ちます。 供養とは、そのような自身の偽らざる誠の心があるからこそ成り立つものなのです。 ブッダや阿羅漢を目の前にして、「あの人に何かするべきですか?」と口にするようでは、そもそも敬意が無いのですから供養そのものが成り立たないと私は思っています。 「供養しなければいけないのですか?」とは、そのような意味になるのです。 供養するかしないかは、あなたの主体的な心の問題なのです。 東アジア一体、特にこの日本においては亡き人を供養するということも大切なこととされます。 ブッダや阿羅漢を供養するように、亡き人を決して「無き人」とはしないのです。 ご先祖を敬うことも、父母を敬うことも供養です。 兄弟や親友などに「尊敬」や「敬う」という言葉が照れくさいならば、「あなたのことを今でも大切に思っています」でも良いと思います。或いは、「かけがえの無い人です」でも。 「かけがえの無い」とはチェンジ不可能なあなたの存在ということです。 もし、お子様を亡くされた方ならば、「今日もあなたを愛しています」でも結構です。 先ずそのような思いがあってこそ、亡き人を「無き人」としないで現在進行形の思いを向けることが出来るのが日本人の大切にして来た供養なのです。 手を合わせるという行為は、亡くなった方だからする行為ではありません。 敬意を表す行為であることを忘れてはなりません。 あなたが手を合わせ、亡き人を思う時、あの人も同じようにあなたを思い手を合わせているかもしれません。 供養とはあなたから大切なあの人への一方通行の行為ではないのです。 あの方も、あなたのことを同じように、いえそれ以上に大切と思っているはずです。 供養とは、そのようにして手を合わせて思いを向ける相手と、お互いがお互いを思い合っている行為でもあると私も思っています。 Mon, 23 Nov 2015 16:43:51 +0900いのちをめぐるエッセイ 其の15http://www.jyoushinji.net/News/view/1/66http://www.jyoushinji.net/News/view/1/66お彼岸にはお墓参りを : 最近の子ども達の学校行事で歌われる歌に横文字が多いことに驚かされます。 希望や夢といった言葉も多く聴かれます。 かつての学校唱歌や童謡はどうだったでしょう。 それは直接的にメッセージを投げ掛けるものではありませんでしたが、温かな憧憬として私たちの胸にいつまでも残っているものではないでしょうか。私の中にあるその感情をあえて言語化するならば、「故郷」であり、「夕焼け」であり、それらは「帰る場所」をイメージするものです。 夕焼けは温かい。 これから辺りが暗くなり、夜になろうとするのに何故か心がホッとします。 なぜならカラスにだって七つの子が待つ帰るべき家があると童謡は教えてくれます。 空き地で遊んでいた子ども達も、一人、また一人とお家に帰る… 暗い夜が来ても、誰にでも帰るべき家があるのですから寂しくはありません。 しかし、帰る家の無い者には夕焼けは寂しいのです。 青少年の更生に関わって来た立場として特に問題に思うのは、帰る場所の喪失です。 「あなたの存在はありのままに認められる」、その絶対的な肯定感を得られずに、「~あるべき」と条件付けられ、夢だ、希望だと前へ進むことばかりを強要されるのは可哀想な話ではないでしょうか。 私達大人が子ども達に先ず伝えるべきは、あなたはそのままの存在が認められているということです。 社会に出れば否応なしに、上下、優劣、自身の価値をそのような価値観で値踏みされて行きます。 他者を蹴落としてでも、誰かに勝つ事、上に立つ事、そのような価値観でしか評価を得ることでしか、自己肯定感が得られないというのは実にしんどいことです。 自分を抑え、常に空気を読んで他者に合わせて生きることもまた同じです。 あなたはあなたで良い。 勿論、その感覚はこの日常の生活の中では中々得難いことであり、社会生活とはそのように自身を抑え、或いは他人との比較で成り立つものでもありましょう。 しかし、あなたはあなたで良い。そんなあなたが良い。 そのように私を認めてくれる価値観や世界観が無くても良いと言う事ではありません。 これはある種の宗教的な感性であり、家庭や地域で培うものとも言えましょう。 震災後の被災地で多く歌われたのが童謡の「ふるさと」であったかもしれません。 老若男女が共に歌える歌があることはとても大切なことです。 そして、共にイメージが出来る「ふるさと」観がある事も大切です。 たとえ、現実世界では辛く悲しい出来事があっても、すべてを失ってしまっても、我々が心の中に在る帰る場所としての「ふるさと」観を失わない限り、それを拠り所にして人は再び立ち上がりる事が出来るのではないでしょうか。その根っこを失ってしまうと再び花が咲くことも葉を茂らすこともできないのです。 今の日本人には帰るべき場所はあるのでしょうか。 夢や希望を謳っても、つまづいた時に帰る場所を持たない、負けた者は二度と立ちあがれないというのでは、それは大変ストレスフルな社会だと思いませんか。 どうか、お彼岸には、夕焼けの向こうに私たちをそのままに受け止めてくれる仏様とご先祖様の居る世界に心を向けて下さい。 ここは私が死んだ後、遺された子や孫を見守る場所でもあります。 子や孫たちがこの世の理不尽な出来事につまづき、世界中の人間が敵にまわったような孤独に陥った時にも、あなたを温かく見守る私がそこに居るから…と。 それを伝えておけるのも生きている内のことです。 そして、お墓参りはそのような温かい場所があることを、彼らに教え伝えておくべき大切な機会でもあるのです。 Tue, 08 Sep 2015 10:26:18 +0900いのちをめぐるエッセイ 其の14http://www.jyoushinji.net/News/view/1/65http://www.jyoushinji.net/News/view/1/65お盆の心 おもてなしの心 : 仏さまや僧侶、そして日本では特に亡き人やご先祖さまに対してねんごろに供養を行います。 「供養」を仏教辞典で引いてみると、「尊敬をもつて、ねんごろにもてなすこと。」と出て来ました。 「供養」ときくと難しく感じますが、まずは大切な人への「おもてなしの心」なんですね。 もうすぐお盆がやって来ます。 今年の夏も、ご先祖さま、故人さまにどのような「おもてなし」をしてお招きしましょうか。 自分もやがてご先祖さまになるのですから、どんなことが嬉しいでしょう。 夏休みのこの時季に、ご家族皆様で考えてみるのも良いですね。 Fri, 24 Jul 2015 10:48:43 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