終活・エンディングノートについて③ HOW TOからWHYへ(つづき) 終活 お葬式

HOW TOからWHYへ(つづき)

「日本の祭の最も重要な一つの変わり目は何だったのか。一言でいうと見物と称する群の発生、すなわち祭の参加者の中に、信仰を共にせざる人々、言わばただ審美的の立場から、この行事を観望する者の現れたことであろう。」
                     (柳田国男「日本の祭」より)

また、かつてのお葬式は村のお祭りに似ていました。地域に伝承されて来た儀式を長老が指示をし村全体で執り行いました。このような知識や経験を蓄積したお年寄りの役割は村の頼りでしたが、お葬式が地域から切り離されたのちは、そのような年配者の役割はなくなってしまったように思います。
代わりに知識や経験を集積した葬儀業者によって儀式を代行させるようになります。そのことによって日本人の死生観をもとにしたお葬式という「物語」の中にいた人々は、その外縁部に置かれてしまったのです。かつてのお葬式では葬儀業者はハードの面のみを担っていました。あくまでも物語の主導権をもつのは施主であり地域社会です。

物語の中にあり、それを体験している人々にとって、それは物語ではなく「リアル」な現実です。祭の熱狂や、宗教の法悦体験している人にしか見えない世界観なのです。しかし、その儀式を代行させている消費者としてその外縁部に置かれることによって、物語は物語として顕在化してしまうのです。それは自身のリアルな問題としては疎遠に映り、葬儀業者から「与えられた」ものとして祭を見物する人々と同じ目線に立ってしまったのです。

かつては(お葬式の)物語の輪の中の者としては、どのように動くのか?という「HOW TO」は問われますが、「WHY?(なぜお葬式をするのか?)」という本質を問われることはなかったのかもしれません。しかし、人々がその外縁部からの視点をもつようになった現代においては、その儀式は形骸化したものに映るのかもしれません。
それでも尚、マスコミや業者主導の終活で取り上げられるのは「HOW TO」としてのお葬式というのが現実です。一方、そもそもお葬式に意味を見いだせない人にとっては、「HOW TO」すら興味がありませんし、「HOW TO」だけを問う従来の在り方にこそ意味を見いだせないのでしょう。

だからと言って昔のお葬式に固執し、かつてのやり方に回帰すべきと言うつもりはありません。しかし、かつてのお葬式が悪いわけでも無意味なわけでもないはずです。社会状況が変化し、人々のマインドもそれに合わせて変わってしまったのです。そのことを度外視し、ただ単にお葬式は不要、意味がないと切り捨ててしまうのは早計です。社会が変わっても、ライフスタイルが変わっても尚、変わらないものもあるはずです。
いくら時代が進んで科学万能の時代になっても自身の死の恐怖や愛する人との死別の悲しみは変わらないのです。お葬式の本質はそのような死に際して、一人称として、また二人称として、あるいは三人称としてもどのように向き合って行くかということでしょう。かつてのお葬式もその意味では人々の死に向き合う知恵と経験の集積だったはずです。
形としては時代にそぐわないものもあるのかもしれませんが、だからと言って、その本質であるエッセンスまでをも捨ててしまうことは果たして良いことなのでしょうか。
今こそ、お葬式を「HOW TO」だけを問うのではなく、「WHY?(なぜお葬式をするのか?)」と問うきっかけとなる終活が求められるのではないでしょうか。
(次回へ続く)

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