終活・エンディングノートについて③ HOW TOからWHYへ 終活 お葬式

HOW TOからWHYへ

「地域の人たちが総出で葬儀を手伝い、亡くなった順番に集落の墓地の土葬されるのが当たり前だった時代には、家族の有無にかかわらず、自分の死後に不安を持つ人は少なかったはずだ。昨今、死に方や葬儀の選択肢が増え、さまざまな情報が飛び交う反面、「どんな葬送がいいのか」「誰がやってくれるのか」という不安が増大してきたのは、持ちつ持たれつの互助関係が消滅し、社会の無縁化が進んできた結果、私たちは葬儀や墓など、サービスや財を購入する消費者の立場に置かれるようになったからに他ならない。」 (既出「中央公論」2014年9月号「終活戦線異状あり」より) 

本来お葬式に「自覚的な」消費者という人はいませんでした。ここに関わる全ての人がその儀式を遂行する何らかの役割を担っていたのです。しかし、人々のライフスタイルの変化や地域の互酬性が失われ、遺族や地域が担っていた役割を葬儀社が代行するようになりました。その結果として葬儀費用が肥大化して行くのですが、そのことは顧みられずに「お葬式は高い」「意味が分からない」というネガティブな面ばかりがマスコミで取り上げられます。

「葬祭業者は、死の変換を行わなければならない遺族などの依頼を受けた代理人として、死の変換を代行することとなる…葬祭業者が代理変換を重ねていくうちに、依頼者が死の変換に関する知識を所持することが困難になっていく。…つまりエージェント側に圧倒的な知識の集積が起こって、情報の非対称性が生じているのであった。…エージェントである葬祭業者が、実質的に死の変換を行うような状況が生まれるようになっていった…」 (既出「現代日本の死と葬儀」より)

かつてのお葬式とは、葬儀社のものでもなく、僧侶のものでもありませんでした。一人の人の死をめぐり、そのご縁のあった人々がその社会的損失をどのようにして埋め、あるいは引き継ぐのか、またその死をどのようにして受け止めて行くのかというコミュニティの問題、そして自分自身の問題であったはずです。それを葬祭業者との金銭の契約によって代行させるようになったことによってその意味は大きく変わってしまいました。

「人間関係が煩わしいから」「お葬式にかける時間と手間が勿体ないから、面倒だから」という理由で業者に代行してもらった結果として費用が増大しただけではなく、お葬式そのものに対する意味も大きく変えてしまいました。しかしながら、それを度外視したお葬式不要論がマスコミを中心に広がっております。
果たしてお葬式そのものが本当に不要なのででしょうか。私たちのご先祖様たちは意味の無いことを行っていたのでしょうか。私はそのようには思いません。現状に至る歴史的な流れを度外視したお葬式不要論は、本質を見誤るものであると感じています。
勿論、ひとつひとつの儀式になかには時代的にはそぐわない部分もあることは確かかもしれませんが、その儀式にも「なぜそのようなことをするのか?」という本質的な意味があるはずです。表面は錆で覆われていても、それをブラッシングして行くとなかからその姿が現れると思うのです。現在の不要論は、その錆だけを見て捨ててしまおうという動きに思えてなりません。
一方で、私たち僧侶はただ頑なにそれに抗うのではなく、その本質的な意味をきちんと説明しなければならない時代にあるのではないかと感じています。その儀式の「HOW TO」だけではなく、「なぜお葬式をするのか?」という本質を今だからこそ論じる必要があるのでしょう。(次へ続く)

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