終活・エンディングノートについて⓶ 終活は結縁の活動 終活 エンディング・ノート

終活は結縁の活動

前回は、エンディング・ノート、エンディング産業といった「エンディング」はあくまでも旅立つ側の視点であり、残される側からすればそれはエンディングではなく、悲嘆や喪失体験としての「スタート」であることをおはなししました。これは昨今の「終活」ブームにも同じことが言えるでしょう。

「介護や終末期医療、葬送などについて自分がどうしたいかをあらかじめ伝え、「あとは任せる」に一言を伝える人がいれば、多くの高齢者に不安は軽減できるのではないだろうか。その意味では、終活ビジネスが煽動するブームは、高齢者をますます不安にさせている側面があるように思えてならない」
                     (中央公論2014年9月号「終活戦線異状あり」より)

第一生命研究所の小谷みどり氏は、昨今の終活ブームを葬祭関連業者の「煽動」と手厳しく評価します。長年に亘り現代の葬儀事情を調査してきた彼女にとって、昨今のにわかな終活ブームの向かう方向に違和感を覚えるのも確かなことなのでしょう。

終活で大切なことは、遺族や周りにかけるであろう手間を「迷惑」だと思わせない人間関係を築いておくことではないか。…介護が必要になったり、死を迎えたりすれば、どんなに事前準備をしていても、自分で実行することができない以上、自分の思いを理解してくれる人に代行してもらうしかない。人生の終焉を考えることは、家族や周りの人との関係を見直すきっかけにもなる。」  (同上「中央公論」より)

かつての地域社会の負の面として、「村八分」のような排他性が挙げられます。しかし、残りの二分、つまり火事と葬式には手を貸すのです。火事と言えば現代では行政サービスが対応します。しかし、このような急場ではすべてを行政に任せるわけにはいきません。消防車が来るまで眺めていたのでは、自分の家まで延焼してしまいます。
消防などの行政サービスが行き届かない時代だけではなく、現代においても震災などの大災害では行政も混乱して対応できないこともあるでしょうし、当然のことながらお金が助けてくれる場面でもありません。とにかく一時的な急場としての住民の「自治」が求められるのではないでしょうか。

このように目の前の現実として起きている危機が火事だとすれば、人の死は目には見えないクライシスです。それは一人称である故人の「みたま」の危機ということのみならず、死別の悲嘆という二人称における魂の危機です。葬儀とは、亡くなった人間のみたまを浄化することのみならず、一人の人の死の衝撃を、その故人の所属する社会集団が如何に受け止め、処して行くのかという知恵と経験の結晶であったのではないでしょうか。

「死の変換方法としての葬儀は、死者本人だけではなく数世代にわたって当事者の所属する社会集団の生活領域に内在的に蓄積された資源を動員して執行された。それは特に本人が意識して死の準備として行っていたものというよりは、生活を送る中で自然に蓄積された資源であり、世代を超えた互酬性として機能していった。そのため、システムは安定しており、葬儀は死を通じて生を肯定するイデオロギー装置としても機能し、さらに現状の社会システムを維持強化するようなイデオロギー装置としても機能していた」
                      (「現代日本の死と葬儀」山田慎也著 東京大学出版会)

そこには誰が居て、その人はどのような人であり、どのようなことができる人なのか、また何を持っていて、何を持っていないのか、災害のような急場ではその地域にある物理的・人的な資源を総動員して対応することが求められます。
かつてのお葬式の場でみられた「お互いさま」の絆は、災害のような現実問題としての急場でも地域力を発揮するシステムを強固にするものであったのかもしれません。(次回へ続く)

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