終活・エンディングノートについて エンディング・ノート グリーフケア エンディングノート

エンディング・ノート

近頃エンディングノートについての話題をよく耳にします。
先日も、「残される家族のために、エンディングノートを書いた。万が一の時にはタンスの中の風呂敷を開けるようにと言ってある…」というようなことを話す人がいました。
勿論、自分の最期のスケッチをしておくことは大切なことかもしれません。しかし、いざ万が一の時に風呂敷を開いて「私の骨はエベレストの頂上に撒いてほしい」などと書いてあったら遺族も大変であろうに…、などと余計な心配もしてしまいます。
このような極端な例はともかく、エンディングノートをどのように位置づけるかにより、場合によってはそのノートが残される遺族の「足かせ」になることも考えなくてはならないことは事実でしょう。

愛する人がこの世に居る限り愛別離苦は誰も免れることはできません。死別を経験してからなされるケアをグリーフケアというのならば、愛する人が悲嘆をより深めない為に生前にできる予防策としてのケア(気配り)もあるのではないでしょうか。そしてそのケアができるのは、誰よりも旅立って行くその本人なのかもしれません。

残念なことに、あなたの死後、あなたはその声で家族を癒すこともできなければ、その腕で家族を抱きしめることもできません。あなたの大切な方が、大きな悲嘆を抱えないように、あなたが今できることは何でしょうか?
「万が一」の時ではもう遅いのです。エンディングノートを、残される人の為に「旅立つあなたが今できるグリーフケア」という観点から考えてみるのも良いのではないでしょうか。

現代ではとかく一人称(私)の死ということでのみお葬式を語る傾向があります。しかし、死の恐怖とは決して「私」が死ぬことだけはなく、「あなた」を喪うことも含めたものであることを忘れてはなりません。

葬送儀礼の正統的な伝承がなされなくなり、人々が共有した死の周辺の「物語」も消滅しようとしています。そのような時代にこそ、何よりもまず、死別した後も続く物語、つまり死生観や宗教観を大切な人と生前から確認し共有していく事が必要であり、そのような場において僧侶が果たす役割があると我々は考えています。

エンディングノート」「エンディング産業」等々、エンディングという言葉が流行しています。しかしあなたの死は、あなたにとっての「エンディング」でも、あなたを大切に思う人々の視点では悲嘆や喪失体験の「スタート」であることを忘れてはならないのではないのでしょうか。

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