人の命に尊前を見いだせるのは、人間しかいない…  登戸 供養

登戸の事件現場には数え切れないほどの花やお菓子が供えられ、連日多くの人が手を合わせにやって来る。人はやり場のない怒りや悲しみを、自分と同じ気持ちを持った人と共に向ける場所が必要なのだろう。
現代社会は人の価値を生産性で値踏みする。「人は亡くなってしまえばその価値はなくなる。死んだ人間を丁重に扱うなんて馬鹿々々しい、俺が死んだら供養は要らぬ、骨は捨ててくれ」。私はこのように嘯く人に聴いてみたい、あなたの子や孫が亡くなっても同じことが言えますか?と。自分が死ぬ心構えと、愛する人を失う心構えは全く別次元のことなのだ。あなたの存在は、愛する人からすれば、あなたが思うほど軽いものではないはず。

自然災害や凶悪犯の前で人の命の価値は木の葉のように軽いものかもしれない。私たちはその無慈悲な現実を前に、犠牲になられた人々と自身、或は自身の愛する人を重ね合わせ暗然たる思いに打ちひしがれる。なるほど自然界や反社会的な者からすれば、人に慈悲をかける義理も無ければ意思もないだろう。

社会に対し牙をむく者に「一人で死ね、他者を巻き込むな!」「悪魔に同情は不要だ」という言葉は正論かもしれない。人として犯罪者を悪魔と断じる気持ちは理解したい。でも悪魔から見れば自分を悪魔に追いやった社会の側が悪魔に見えるのだ。勿論それは逆恨みであり、人の命に価値を見出せぬ犯罪者を容認することは出来ないが、自身も同じ土俵に立ってはならぬ。悪の種を宿す者に対して一番の肥料となるものを社会は与えてはいけないのだ。犯罪者を非難し感情的になってしまうことで次の犯罪を未然に防ぐ手立てを見失ってはならぬ。人の価値を値踏みする社会を容認することは自身もその不寛容の社会に追い込まれ悪魔になる可能性をもつ。人は仏にもなれば悪魔にもなる。その自覚がある人は仏になることはできるが、無自覚ならば悪魔にも堕ちる。

祈りや供養は決して無駄な行為ではない。その姿は私達が何に敬意を示しているのかを自他に知らしめる行為でもある。無慈悲に散った儚い命に対して、「人間は木の葉ではない!尊い存在なんだ!」そう抗う意思が対象者に敬意を表す「合掌」という行為によって宣言される。

そう、人間に尊厳を見いだせるのは人間以外にはいないのだ。

命に対して手を合わせる行為は命を軽視するものに対する抗いであり、それは私の心の中にも宿る悪の心を砕く行為でもあるのだ。                           合掌

登戸の事件について

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人の命に尊前を見いだせるのは、人間しかいない…