終活について 其の参 会うは分かれの始まりです お葬式 供養

会うは分かれの始まりです

 子どもの頃、私はただ漠然と「死」を恐れていました。
 死とは何かということもよくわかりません。
 勿論、今でもわからない事ばかりですが、かつてとは大きく違うことがひとつあります。
 それは子どもの時の恐怖は、この「私が死ぬ」恐怖だったように思いますが、今はそれよりも「死なれる」ことに対する恐怖の方が大きくなったということです。

 歳を重ねるということは、かけがえの無い人が増えて行くことでもあります。
 かけがえの無いとは、「かけかえることのできない」、つまり他のものでは代替できないということです。そして、かけがえの無い人を失うことは自分の人生で最も辛いことではないでしょうか。

 現代の社会は「得る事」には貪欲でも、失うことに対しては脆弱です。
 勿論、物であれば、失った物よりも更に最新のスペックの良い商品に買い替えることもできます。しかし、かけがえの無い人の喪失は、「買えば良いや」「取り換えれば良いや」というものではない筈です。

 現代の消費社会では葬儀業界の在り方も大きく変わって来ました。
 「新しい供養のあり方」、「私らしいお葬式の提案」などの謳い文句があふれています。しかし、変わらないことも大切なことではないのでしょうか。お葬式や年忌法要などの供養のあり方には、「かけがえの無い人」との「かけかえることのできない」関係性がストーリーとして内在しているのです。

 自分が祖父母や父母を送ったようにして、自分も子や孫に同じようにして送られて行く…。その儀式や作法の中で、私たちの先祖たちは避けることのできない死別をも見据えた物語を「かけがえの無い人々」と共有して来たのです。

「死」の本質は「死ぬ」事だけはなく、「死なれる」事でもあります。
私は「死ぬ側」だけでなく、「死なれる側」にもなるのです。

 「会うは別れの始まり」とは悲しい言葉ですが、ある意味で真実でもあります。だからこそ、かけがえの無い人と共に、死生観を共にしておくことが大切です。
 それは決して難しい話をするまでもなく、伝統的な供養を丁寧に行ってゆくなかで感性として涵養されて行くものなのではないでしょうか。

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